出水のツル観察から長島の段々畑・造形美術展へ
旅のはじまりは、朝からまさかの雨の出水駅。でも走り出すころには雲が切れて、まずは日本一の大鈴がさがる箱崎八幡神社へ。島津氏が薩摩へ下るとき、福岡の筥崎宮を勧請したお社だという。鈴には鶴が舞い、旧海軍出水航空基地跡では、戦闘機を覆った掩体壕がいまも野にうずくまっていた。
そして飛来解禁初日のツル観察センター。もう千羽以上が渡ってきていて、クワクワという鳴き声が田んぼに響く。必殺100倍ズームで鶴を追い、朝日の式典のにぎわいにまぎれて、シベリアとホットコーヒーで一服した。
黒之瀬戸を渡れば、ここからは島。海鮮食堂が軒を連ねる瀬戸で刺身をほおばり、強烈な向かい風とアップダウンに喘ぎながら、ずっと見たかった東シナ海の赤土の段々畑へ。宿では二年に一度の造形美術展の作品を見てまわり、温泉と鰤定食、長島限定のさつま島娘で一日を閉じた。
出水のツル
出水平野は、世界有数のツルの越冬地。シベリアなどで繁殖したナベヅルやマナヅルが、毎年秋から冬にかけて一万羽をこえて渡ってくる。この日はちょうど飛来地の公開が解禁された初日で、観察センターにはすでに千羽あまりが到着していた。早朝には朝日をバックに鶴が舞い立つ式典もひらかれ、ズームレンズ越しにしか届かない遠さでも、群れがいっせいに飛ぶ気配は胸に迫る。
長島から渡船で天草本渡へ
あくる朝、宿のまわりに住みついた猫にスリスリされながら出発。人のいない造形美術展をもう一度めぐり、坂を登りつめた先の「空中展望トイレ」へ。ただの展望台付きトイレと思いきや、東シナ海を見晴らす眺めはこの旅いちばん——曇り空さえ惜しかった。
長島は温州みかん発祥の地だとか。諸浦港から天長フェリーに自転車ごと乗りこみ、獅子島ごしに天草の中田港へ。鹿児島ナンバーと熊本ナンバーの車が入りまじる船で、ひとつ県境を越えた。
本渡で遅めの昼ごはん。焼肉をしない約束で入れてもらった店で、あまくさ放牧豚のステーキと、アツアツのシチューを閉じ込めたパンの溶岩ドーム。山を登って天草キリシタン館で天草四郎と島原の乱を予習し、潮で逆流する祇園橋をのぞく。夜は生け簀のある料亭で、刺身とあら炊き素麺、天ぷらに舌鼓をうった。
天草四郎と島原・天草一揆
1637年、重い年貢とキリシタン弾圧に苦しんだ島原・天草の人々が立ち上がったのが、島原の乱(島原・天草一揆)。その総大将にかつがれたのが、当時まだ十代半ばの少年・天草四郎(益田時貞)だった。天草に布教したのはザビエルではなく宣教師アルメイダで、本渡の天草キリシタン館にはその歴史が展示されている。一揆勢は島原半島の原城に籠城して幕府の大軍と壮絶に戦う——その舞台は、三日目にたずねることになる。
天草から島原へ渡り島鉄廃線跡と原城跡
三日目にして、ようやく期待どおりの快晴。五和町の鬼の城公園は、鬼瓦ばかりがやたら並ぶふしぎな公園——もとは大蛇の伝説の「鬼の城」から「鬼」の一字だけが独り歩きしたらしい。通訳が住んだから通詞島、という島ではイルカウォッチングの船を惜しくも逃したけれど、晴れた海はどこまでも青い。
鬼池港から口之津港へ、自転車ごと渡し船で島原半島に上陸。南蛮貿易と三池炭鉱の石炭で栄えた港町で、ちゃんぽんとシュウマイの昼ごはん。ここからは島原鉄道の廃線跡を、終点だった加津佐から海沿いにたどっていく。裾野のアップダウンに泣かされる島原で、線路跡はありがたいほど平らだ。
そして世界遺産・原城跡。天草四郎たちが籠城した乱の終焉の地は、いまは有明海を見おろす静かな畑になっていた。対岸の天草や、談合がひらかれたという湯島との距離感が、やけに生々しい。稲架かけの田んぼと雲仙を横目に廃駅をつないで島原へ。最後はラーメンと赤辛牛すじで一日を締め、島鉄と西九州新幹線で夜どおし帰った。
世界遺産・原城跡
原城は、島原半島の南端に有馬氏が築いた城。すでに廃城となっていたが、1637年の島原の乱では天草四郎を総大将とする一揆勢が立てこもり、幕府方の大軍による攻囲におよそ三か月耐えた末に落城した。乱の後に城は徹底的に破却されたため大きな遺構は残らないが、有明海を見はらす丘には石垣や十字架の墓碑がしずかに眠る。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、ユネスコ世界遺産に登録されている。