宇島着・枝川内あじさいと、修験の霊山 求菩提山へ
早朝の宇島に降り立つと、空気はもう夏の重さ。まず向かったのは枝川内のあじさい祭り、まちおこしで里山いっぱいに紫陽花を植えた田園地帯だ。少し盛りを過ぎたか、暑さにやられたか、焼けた花も目についたけれど、上流にいくほど無事な株が増えていく。単体なら青が好き。でも里山の景色には、赤もよく映えるわね。
里をあとにして、岩屋の岩窟へ。この一帯は修験道が盛んで、大岩の庇の下にお堂を抱いた行場がいくつも点在しているという。そしていよいよ求菩提山——北部九州屈指の修験の霊場だ。ずっと電波の届かぬ山道を、水ノ神の冷たい湧き水に喉をうるおしながら登る。岩陰にならぶ石仏、苔むした石段、獅子の口。そして鬼が一晩で積み上げたという急峻な石段は、狭く、長く、落ちたら死ぬ。のぼり切れば頂上、上宮の立つ六根清浄の地だ。下りは断崖絶壁の下をゆく、これまたスリルのある道だった。
下山の後は、求菩提そば団子汁とかしわおにぎり、豊前の柚子ソーダでひと息。求菩提資料館で山の歴史をおさらいし、温泉で汗を流してさっぱり。夕食は豊前名物オニメン——本来は地の唐辛子を使った辛い汁なし麺らしいが、この店のは麺をパスタから選ぶ変化球だった。宇島に戻れば下界は茹だるような暑さで、今月から値上げしたばかりの AZ ホテルに転がり込んだ。
求菩提山と修験道
標高782mの求菩提山は、英彦山と並ぶ北部九州の修験道の一大霊場。伝承では6世紀ごろ猛覚魔卜仙が開き、平安期に頼巌が中興したとされる。山中には国玉神社の中宮・上宮が鎮まり、山伏たちが参籠した岩屋や、五窟と呼ばれる行場が点在する。頂近くへ続く急な石段は、鬼が一晩で積み上げたという伝説で知られ、いまも修行の径としてそのまま残る。豊前に多い屏風のような山々は、こうして行者たちの目を引き、祈りの場となっていった。
豊前オニメン
「オニメン」は、豊前特産の唐辛子を使った汁なしの辛い麺——というのが本来の定義らしい。ただ訪れた店はそれを逆手にとり、麺をパスタやうどんから選べる変化球仕立て。明太子とシーフードがたっぷりの一皿はたしかに美味いが、料理としてのアイデンティティはやや迷子。辛さは豊前の唐辛子らしく、うまみ成分もたっぷりだった。
日豊本線で中津へ・城と諭吉と赤い壁
二日目は午後から雨の予報。ホテルの朝ごはんをしっかり食べて、日豊本線に乗り込む。小倉藩と中津藩の藩境だったという御界川を越え、蔦に覆われたレンガのトンネルをくぐって、黒田官兵衛ゆかりの城下町・中津へ。入城料千円のプレオープン中だった中津城は、資料館の入口が花と緑でこんもり、中はまるでジャングル。黒田・細川のあとに入った城主・奥平は、あの長篠城を守り抜いた一族だと知る。天守から見わたせば、豊前はやはり面白い形の山が多い。
つづいては元・万札の人のおうち、福澤諭吉旧居へ。欧米に学んで本を書き、慶應義塾をひらいた人——「学問のすゝめ」以外は意外と知らなかったが、糸車の残る茅葺きの家で、その足跡をひとめぐり。それから寺町へ。合元寺の壁がまっ赤なのは、黒田官兵衛が宇都宮一族を討った際、その血が白壁にいくら塗り替えても滲むので、いっそ赤く塗ったからだという。おだやかな門前に、そんな凄惨な記憶がしのばされている。
締めは中津の魂、宝来軒の中津ラーメン。極細麺に、硬さまで聞かれる本格派。博多とは全然ちがう、甘みのあるスープとムチムチのチャーシューが(゚д゚)ウマカー。おみやに兎月のあじさい水無月まで買い込んで、中津駅から夕方の列車で帰路についた。梅雨のあいまをぬうように歩いた、豊前・中津の二日間だった。
赤壁の合元寺
中津・寺町にある合元寺は、壁一面が鮮やかな赤に塗られた「赤壁寺」。天正年間、城主となった黒田官兵衛(孝高)が、旧領主・宇都宮鎮房ら一族を謀殺した際、ここが戦いの場となり、討たれた家臣たちの血がしみ込んだと伝わる。白壁に塗り替えても血の跡が浮かび出るため、ついには赤く塗ってしまった——それが今に続く赤壁の由来だという。門前の静けさからは想像しがたい、城下町の黒い記憶である。
中津城と奥平氏
中津城は、黒田官兵衛(孝高)が築きはじめた水城で、周防灘に注ぐ中津川の河口に建つ。黒田・細川と城主が替わったのち、江戸期を通じて治めたのが奥平家。その祖は、長篠の戦いで武田の大軍を相手に長篠城を守り抜いた奥平貞昌(信昌)で、徳川家康の長女を娶った譜代の名門だった。天守は後世の復興だが、下見板張りの黒い姿が水辺に映える。