佐世保から船で平戸島へ 最西端の港町宮ノ浦
旅は佐世保の港から。桟橋にはあのダイヤモンド・プリンセスが停泊し、沖には自衛隊の艦船の影。歴史的な大型客船を横目に、鯨瀬ターミナルから小さな船で平戸島をめざす。けっこう揺れる船旅のはてに津吉へ上陸し、ふれあいバスを乗り継いで島の先っちょへと向かった。
乗り継ぎ待ちの津吉をぶらつけば、町はどこも「最西端」アピール。志々伎まで歩いて福田酒造をたずねると、女将さんのガイドつきで酒蔵を案内してもらえた。日本酒と焼酎の両方を仕込み、名物はじゃがいも焼酎。かつては船を持って宇久島まで酒を運んだという——こんな島の先端にも、海の商圏があったのだ。試飲をいただき、ほろ酔いの足で、ついに橋で結ばれた日本最西端のみなとまち・宮ノ浦へ。
行き止まりの漁村から折り返し、紐差で乗り換えて平戸桟橋へ。空きっ腹にうどんの亀のちゃんぽんが染みわたる。大航海時代の記憶をのこすオランダ商館をのぞき、お開きムードの崎方商店街を抜けて宿へ。夜は日蘭友好のオランダちゃんぽん——牛乳やチーズ、じゃがいもを思わせる具で、麺以外は別の料理みたいにクリーミィだった。
平戸とオランダ商館
戦国末期から江戸初期にかけて、平戸は南蛮・紅毛貿易でにぎわう国際港だった。1550年にはポルトガル船が来航し、フランシスコ・ザビエルも布教に訪れている。1609年にオランダ商館、翌年にはイギリス商館も置かれ、西洋の文物が行き交った。だが1641年、幕府はオランダ商館を長崎の出島へ移す。平戸がオランダに開かれていたのは、実は三十数年ほど——短くも濃密な、日本と西洋の最初の蜜月の地だった。
平戸城と生月島のかくれキリシタン巡り
二日目の朝は平戸城から。小高い丘に建つ城の櫓のひとつには、なんと泊まれるらしい——1泊66万円、という桁にのけぞる。天守にのぼれば平戸の港と海がひらけ、海の向こうがそのままヨーロッパに通じていた時代を思う。南蛮渡来の面影をのこす六角井戸をのぞき、軽トラ市で平戸牛のビーフホッサンを頬ばって、生月島へと橋をわたった。
生月島は、かくれキリシタンと捕鯨の島。殉教者を洗礼名で「ガスパル様」と呼んで祀る殉教地に手をあわせ、山の上の草原にのぼって海を見はらす(足もとの落としものに注意…)。田植えまぢかの集落には赤レンガのカトリック山田教会、生月観音からの眺めには、仏教の墓石の上に十字架が立つ墓がいくつも。信仰が幾重にも折り重なる、この島ならではの風景だ。
舘浦の漁村をぬけ、角のある青い生月大橋をあおぎ、島の館で捕鯨とかくれキリシタンの展示をじっくり見る。お昼は生月名物のミルクセーキ——甘くてシャリシャリ、昼どきはバイカーが並ぶ一品。平戸に戻って麸まんじゅうをおみやに、西海の光のなか、日本最西端の駅・たびら平戸口から帰路についた。
かくれキリシタンの島
禁教の時代、平戸島の西海岸と生月島には、信仰をひそかに守りつづけた「かくれキリシタン」が多く暮らした。明治に禁教が解けると、カトリックに復帰したグループと、先祖から受け継いだ独自の信仰のまま残ったグループに分かれたという。かくれの人々は仏壇も神棚もまつりながら、オラショ(祈りの言葉)を唱えつづけた。殉教者を洗礼名で「○○様」と呼んで墓を祀る風習もその名残で、生月島の「ガスパル様」もそのひとつ。仏と神とキリストが同居する風景は、この島の四百年の記憶そのものだ。