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佐伯・大入島 とんどの火と、九州のいちばん東へ
SAIKI · ŌNYŪJIMA & CAPE TSURUMI · 2024 冬

佐伯・大入島 とんどの火と、九州のいちばん東へ

島の正月を燃やす火と、豊後水道の灯台。真冬の佐伯、二日間。

2024.1.13 ▶ 1.14

Days2日間
Dist約203km
Area大分・佐伯
Top最高 305m

一月の九州は、まだ正月の名残をまとっている。福岡から特急で山をいくつも越え、三時間半かけて着いた大分・佐伯は、造船と漁のまち。朝いちばんの渡船で湾に浮かぶ大入島へ渡り、海沿いの道をぐるりと一周した。神武天皇が立ち寄ったと伝わる日向泊、伊能忠敬が測量の第一歩をしるした起点、ちりめんを干す集落——島はちいさいのに、物語がやたらと濃い。

日が暮れてふたたび島へ戻ると、浜ではとんど焼き(左義長)の支度がすっかり整っていた。正月飾りを積みあげた櫓に火が入り、鉦と神楽の音、餅撒きの歓声、そして凍える夜空いっぱいの星。翌日は自転車で九州最東端・鶴御崎を目指し、灯台と、海峡をにらむ砲台跡をめぐる。火と海と、少しの火薬のにおい。真冬の佐伯をまるごと味わった記録。

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DAY 1 · 01.13

列車で佐伯へ、大入島一周ととんど焼き

夜明け前の福岡を、特急に乗って発つ。受験シーズンの車内には痴漢防止の私服警官が乗っているとアナウンスが流れ、窓の外はまだ藍色。隣県とはいえ佐伯までは三時間半、青森と東京くらいの距離感だ。たどり着いた佐伯は造船と漁のまちで、朝の光のなか、さっそく渡船で湾に浮かぶ大入島へ渡る。

島は一周十七キロ。セメント工場と造船所が並ぶ入り組んだ海沿いを、ずっと平坦な道でたどっていく。神武天皇が美々津を出て立ち寄ったと伝わる日向泊、こんこんと湧く神の井、そして伊能忠敬が日本全図の測量をはじめた第一歩の起点——ちいさな島に、歴史がぎゅっと詰まっている。軒先では青い網にちりめんが干され、昼はちりめんパンで一息ついた。

いったん佐伯に戻り、チェックインまで町を歩く。濃霞山からは造船所が丸見えで、番匠川の堤防にはクオリティの高い壁画。石垣の立派な佐伯城に登れば、まちと海がぱっと開ける。渋い宿で鯵寿司の夕食をすませたら、いよいよ本番。暗くなった島へ三たび渡ると、正月飾りを積みあげたとんどの櫓が待っていた。神事がはじまり、議員も市長も駆けつけ、餅撒きの歓声があがる。佐伯神楽は面の舞人が日本刀をひらめかせ、湯を沸かして葉で頭を打つ——そして火。あっという間に燃えあがる炎と、凍える夜空にくっきりと浮かぶオリオン座。島の正月が、火になって昇っていった。

移動 約158.0km / 獲得標高 352m

とんど焼き(左義長)

正月飾りや門松、書き初めなどを一か所に積みあげて燃やす、小正月の火祭り。地方によって「どんど」「さいと焼き」とも呼ばれる。その年に迎えた歳神さまを、炎とともに天へ送りかえす意味があるとされ、倒した火で焼いた松の枝の焦げを持ち帰るとご利益がある、炎で餅を焼いて食べると一年を健やかに過ごせる、といった言い伝えが各地に残る。大入島のとんどは四年ぶりの開催で、作りあげられた櫓は見あげるほど立派。神事と佐伯神楽、餅撒きまでそろって、浜はおもいのほか賑わっていた。

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DAY 2 · 01.14

九州最東端 鶴御崎と砲台跡めぐり、福岡へ帰宅

二日目は自転車で九州最東端・鶴御崎をめざす。寒さに震えながら新佐伯大橋を渡ると、朝日が昇ってきてようやく指先に血が通う。道ばたのクロちゃん一家(ねこ)は、白くしたばかりのタイヤにさっそく群がって大モテ。半島の先っちょまでは平坦だったのに、灯台へはまさかの地獄坂。登りきると、豊後水道をにらむ砲台跡と、真っ白な鶴御埼灯台が待っていた。「九州最東端!!」の碑に立ち、眼下にはどこまでも青い海。

来た道を戻りながら、スルーしてきたスポットを拾っていく。豊後水道のまんなか、岩礁にぽつんと建つ水ノ子島灯台の資料館では、灯台へ渡る苦労や、灯りに衝突して命を落とした渡り鳥の剥製にしんみり。そして丹賀砲台跡——軍縮条約で不要になった戦艦「伊吹」の主砲を転用した砲台で、訓練中の暴発事故という悲劇を抱えている。砲弾を運ぶ斜行のスロープカーに乗って、ドームの底へ降りていく。

うず巻を昼がわりにほおばり、来たときのネコちゃんにもう一度あいさつして、佐伯へ。走ったあとのラーメンはスープがクリーミィで(゚д゚)ウマー、カロリーはもちろんゼロ。九州ネット切符で少し安くなった特急に揺られ、火と海の二日間を胸に福岡へ帰った。

移動 約41.7km / 獲得標高 430m

丹賀砲台跡

豊後水道をにらむ、佐伯・鶴見半島の砲台跡。ワシントン軍縮条約で廃艦となった巡洋戦艦「伊吹」の主砲を転用してつくられたが、1942年の訓練射撃中に暴発事故を起こし、多くの死傷者を出した悲劇の砲台として知られる。山肌を貫くスロープカーは、もとは重い砲弾を運びあげるための斜行軌道。頂上のドーム屋根は観光施設として後年にかぶせられたもので、いまは砲座跡の底まで降りて、巨大なコンクリートのピットを間近に見ることができる。